当たり前を疑う
私の周りは、ほとんどが会社員か公務員で、良い学校出て、良い会社に入ったら幸せに生きられる…といった大人の言葉を疑わなかった人達。
私も少し前まではその生き方に疑いを持たなかった一人。
学生時代は勉強ばかりして、地元のトップ校から、全国的に知名度のある大学を経て、一部上場企業に新卒で入社して…
パワハラもあって、精神を病んで、やりたいこととも違って辞めた後は何が残ったのか?
正直大したものは残りませんでした。
これは、すごく可能性の低いタラレバの話ですが、
もし、自分に子供が出来たら、
それが女の子だったら、
私も行きたいと言ってくれたら、
無理しなくても行ける学力があったら、
母校である中高一貫の女子校には入れたいなぁとは思っています。
すごく充実していて、今でも繋がる仲間が見つかったから。
若しくは語学は出来ると役に立つことが多かったから、留学には賛成すると思います。
本人に行きたいという強い気持ちがあればですが…。
でも正直学歴はなくても良いという結論に至ったので、それ以外を勧める気持ちにはなれません。
昔々私も京都大学に落ちて恐ろしく落ち込んで、行きたくもない大学に行ったものだから暗黒の4年間を過ごしたこともあったんですが、
そんな落ち込むようなことでもないのに、バカだったなぁ昔の私はと、大企業辞めてからやっと気付きました。
社会に出てしまえば偏差値の5や10の差は誤差でしかありませんでした。
だって、テレビのクイズ番組見ていても、京大卒の宇治原と、同志社大卒のカズレーザーとが競り合ってて…
大学の偏差値でいうと、受験科目が違うから正確には比較出来ないけど、10位は違うはず。
私も京大に落ちた時、同志社はセンター利用で受かっていたので、結構差があるのは確かです。
こういう光景を見ても、どこを卒業したかではなく、その人が何を持っているのかなんだなぁと、当たり前のことですが、やっと気付けたんです。
あの時京大に万が一受かってたら、変なところに自信過剰になって、見えるものも見えてなかったかもしれないと思うとこれでよかったのかなぁと。
もちろん、楽しいことを我慢して、勉強出来る力は、自制心というか、1つの評価すべき才能だとは思います。
でもその誤差に何年も思い悩んだり、コンプレックスに感じる必要は一切ないというのが今の私が至った結論です。
それ以外にも沢山評価すべき才能があって、学ぶべきことがあるということにアラサーになって初めて気付いたんですよね。
勉強で評価されることが当たり前の世界をあの時疑えていたら…とは思いますが、まだアラサー、人生の3分の1しか終わっていません!
これから新しい価値観をどんどん取り入れていけばいいんですよね。
前述の勤め人が当たり前という価値観も、疑ってみれば色々と見えてくることは多かったし、とにかく、仕事できないお荷物な奴らの給料も稼がないといけないことのあほらしさを痛感させられています。
皆さんも何か自分の周りにある当たり前を疑ってみませんか?
見える景色が全然違ってきますよ!